INTERVIEW インタビュー
レジェンド声優にこれだけは聞いておきたい!
羽佐間道夫さんVol1 俳優人生の基盤を形成した「戦争体験」と「寄席」
最レジェンド声優の一人・羽佐間道夫に学ぶ
演じること、仲間と力を合わせること、人を楽しませること。
業界歴60年超!TVアニメ創成前から活躍する、生ける伝説
諏訪道彦さん(以下、諏訪):こんにちは。アニメプロデューサーの諏訪道彦と申します。この度は、常に私の先を歩む業界の先輩である植田益朗さんがデジタルミュージアム「ANIMUSE」を立ち上げられ、そこに何とかお力になれないかということで、レジェンド声優のみなさまにお話をお伺いする本コーナー「すわっちのレジェンド声優にこれだけは聞いておきたい!」を担当させていただくことになりました。
第1回はレジェンド声優の方々の中でも最レジェンドと言っていいであろう、羽佐間道夫さんにお越しいただきました。この度は誠にありがとうございます。
羽佐間道夫さん(以下、羽佐間):こちらこそどうぞよろしくお願いいたします。それにしても、最レジェンド、って。まあ、僕と同じくらいの人たちはみんな死んじゃったからね!(笑)
諏訪:いきなりよしてください(笑)。
このコーナーは、様々な実績を残されてきたレジェンド声優の方々に今一度わたくしからお伺いしたいことを伺い、今の業界や後進となる若い方々へ伝えたいことをお話しいただくことを趣旨とさせていただきました。それではどうぞよろしくお願いいたします。
羽佐間:ハイ!
諏訪:オオ……この素晴らしく通る「ハイ」の御声が素晴らしいですね。もう、数々の映画の名シーンが浮かんでくるようです(笑)。
俳優を目指すきっかけとなった中学校時代の恩師との出会い
諏訪:本日は代々木八幡駅周辺のスタジオでインタビューの収録をさせていただいているのですが、羽佐間さんはこの土地にゆかりがあると伺っています。
羽佐間:そうなんです、懐かしいなんてものではないですね!この近くに昔、名教中学というのがありまして、今は東海大学の附属中学校になっていますけど、僕はずっとそこへ通っていました。
それで、今日はきっとこういうことを質問されるのではないかと思いますけど、(俳優を志した)きっかけは何なの?ということですよね。
諏訪:その通りで、役者や声のお仕事を始めるきっかけになったことが何なのかはぜひ伺いたいと思っていました。そのきっかけがこの地に?
羽佐間:そうです。この近くにあった中学校に通ううちに、ある先生から「演劇部に入らないか?」と誘われるようになったんです。内木文英先生と仰る方なのですが、児童文学の作家の方で、その方が僕の担任だったんですよ。先生がまだ早稲田大学か学習院大学の学生だったと記憶しているんですが、彼がその中学校に演劇部を作ったんです。
諏訪:情熱のある先生だったんですね。
中学同窓の先輩との吹替現場での再会
羽佐間:その演劇部で初めて劇団風の芝居をやらせていただいたんですが、そこには将来役者として大成する人が複数いるような、今思えば恵まれた環境だったんですね。たとえばそこで演劇を一緒にやっていたうちの一人、僕より上のクラスに、相模太郎という浪曲師の息子がいたんですよ。
諏訪:浪曲というのは、三味線を伴奏に使った語り芸、いわゆる浪花節のことですね。
羽佐間:相模太郎はその二代目で彼自身も浪曲をやっていたのですが、じきに吹替や声優もするようになりまして、やがて長ずるに及んで、僕が映画『五つの銅貨』で主演のダニー・ケイの役を演じた時に、サッチモ(ジャズトランペット奏者ルイ・アームストロングの愛称)の声の役で共演することになったんです。
中学生の時は僕が『カチカチ山』のタヌキの息子の役をやっていて彼がそのお父さん役でしたから、「おお、お前!懐かしいなあ」というものですよ。その時はびっくりしましたね。
諏訪:時を隔てた親子共演だったわけですね。演劇部はどのくらいの人数でやられていたんですか?
羽佐間:20人いたかなあ、大した人数ではなかったと思いますよ。男の子だけの部で、イソップ童話やカチカチ山、内木先生が作られたものなどを演じていました。そこで初めて俳優といいますか、舞台に立って人に見せるということをやり始めた、ということなんですね。
迫る戦火、集団疎開……戦争で激変した少年期の日常
諏訪:今伺ったのは中学生の時のお話でしたが、もう少し時を巻き戻しましてお話を伺いたいと思います。それ以前はどんな男の子だったんですか?
羽佐間:今日はそんなところまで聞かれるんじゃないかなあと思っていたのですが……僕はもう、実に女々しい男でしたよ(笑)。
諏訪:どうしてそんな風に仰るんですか(笑)。
羽佐間:実は僕の俳優としての原点は、少し話が長くなるのですが、小学校時代にあったんです。僕は元々白金小学校という小学校に通っていたのですが、戦争の影響で一瞬だけ豊島区の学校に通わなければならないことになりました。そして豊島区に行った途端に今度は集団疎開で長野県の山奥の旅館に疎開することになったんです。
諏訪:小学校何年生の頃でしたか?
羽佐間:4年生です。集団疎開では30人から40人くらいの子供たちが両親と離れて一つの部屋に来るわけです。そうすると、必然的に猿山になるんです。つまり、力の強いボス猿のようなのが出てくるんですね。
諏訪:ああ……わかる気がします。
羽佐間:そのボスがね、頭が良かったんでしょうけど、すぐに自分の右手左手になるような部下を作っちゃうんですよ。「オイ、あれを取ってこい!」なんて言って、ヤクザの世界と同じようなものを2週間もしないで作っちゃう。それに比べて僕なんかはもう、いつもチョロチョロと人の顔色を見てばっかりいるような子だったんですよ。
諏訪:でも、そういう環境だったらそうやって息をひそめておくしかないですよね。
忘れ得ぬ友人と、その勇気
羽佐間:そこでもう1人、僕と同じように弱い子がいたんです。仮にサイトウ君としますが、ある日彼が「ねえ君、これ食べる?」「僕のお母さんが作ってくれたんだ」と言って、小さな缶に入った大豆にお砂糖をまぶしたものを僕にくれたんです。甘いもなんかなかった時代だったから、彼はそれを食べるのをほんのちょっとの楽しみにしていたんですね。その大事なものを僕に分けてくれた。それ以降とても仲良くしていた子でした。
一方、僕たちは全員両親や兄弟と離れて暮らしているものですから、彼は毎晩「お父さん、お母さん」と言って泣くんですよ。離れている家族も爆弾で毎日やられていますから、不安で仕方がないんです。
諏訪:家族と離れ離れな上に、いつ亡くなるかもわからないのでは、それは仕方ないですね。
羽佐間:その頃僕たちは疎開先の旅館に住んでいたのですが、そこには長い渡り廊下があって、その先に先生たちがいる別館がありました。そして、何か用があった時は1人ずつその渡り廊下の先の別館に呼ばれるんです。
諏訪:その、用、というのは……
羽佐間:それはつまり、両親が亡くなったよ、ということです。
諏訪:うわあ……呼ばれてしまったら、それを告げられると分かっていながら長い廊下を一人で行かなければならない、と。
羽佐間:帰ってくる時はみんな泣きながら戻ってくる、泣き道だったんです。そしてある日、サイトウ君が別館に呼ばれるわけです。呼ばれて、行って、暫くして。ワンワン泣きながら彼が帰ってくる。
諏訪:ああ……聞くだけでウルウルしますね……
羽佐間:その間に、あろうことか例のボス猿が、彼の缶を取ってパクパク食べてるんです!そして周りのみんなも彼にひれ伏してる。サイトウ君の大事なものだと知っていながら、文句が言えずに黙ってるんです。
サイトウ君はとても大人しい子だったのですが、その光景を見た瞬間、ワーッ!と言ってボス猿に駆け寄って行って彼を殴り始めたんですよ。そしてその時、それまでボス猿に屈していた周りのやつらが、一斉に立ち上がってボス猿に殴りかかっていったわけ! 親分が作った支配地図がどんでん返しになったんです。
明くる日からはボスは端っこの方で小さくなっちゃって、そこから徐々に弱い者同士がかばい合う、とてもいいクラスになっていきました。
諏訪:まさに下克上ですね。
羽佐間:周りの子たちは、それまで誰も何も言わずに黙って従っていたけど、きっかけが欲しかったんでしょうね。みんなボス猿が食べてるものがサイトウ君の大事なものだということは知っていたわけですから、彼が長い涙の道を泣きながら帰ってきて、泣きながら突っかかっていった時に、その姿を見て「冗談じゃない、黙っていられるか」「もうどうでもいいや」と吹っ切れたんだと思います。
その時僕は、サイトウ君の姿を通じて、集団というものの作られ方や仲間の生み出す力のすごさを知りました。「集団でいれば怖くないな、仲間を作れば僕だってあいつに立ち向かっていけるんだ」という勇気を持てたんです。
そうやってアンサンブル、集団で何かをするってすごいことなんだと思い始めた頃に、先述の通り中学校で先生と出会い、演劇というものが近づいてきた。だから、サイトウ君から学んだことこそが、みんなで力を合わせて何かを演じるということの原点だったんじゃないかなと思うわけです。
諏訪:後年劇団を立ち上げられることにもその影響が感じられますね。
羽佐間:そうですね。その後、中学校で児童文学の先生に出会って演劇について延々いろいろ教わっているうちに「将来こういうことをやっていくのかなあ」なんて思い始めて。それから先は長いんですが、今日に至るわけです。
諏訪:小学4年生の時のことですから、8歳か9歳の時から、80年近く経るまで、サイトウ君が羽佐間さんの価値観を揺さぶったことの先に今があるわけですね。
羽佐間:サイトウ君がいなければ、今日僕はここに居なかったんじゃないかと思いますよ。
諏訪:彼から与えられた影響は本当に大きいですね。
戦争を生き抜いた、非日常の中の日常
諏訪:ところで、疎開先だった旅館というのはどういうところだったのでしょう?今もあるんでしょうか。
羽佐間:長野県の田沢温泉の「たまりや」という旅館でね、今もありますよ。当時、小川で毎朝洗濯をしているかわいい少女がいて、その子がその旅館の跡継ぎだったんですが、僕はその子に憧れてチョロチョロ見に行ったりしてたんですね。この前久しぶりに行ったらその子が「あーい」なんて言って出てきましたよ(笑)。
諏訪:素晴らしいですね!人も旅館もそのままなんですね。
羽佐間:そう。僕は、ちょっとずるいことなんだけど、何としても東京に帰りたいもんだから、わざとその旅館の一本柱の角に何度も体をぶつけて「痛い、痛い」なんて言うわけですよ。相撲じゃあるまいしね。そしたらヤブ医者が、よく診もしないで「肋間神経痛だ」なんて言ってカルテに書いて、それで一時的に東京に帰してもらえたりしたんです。まあすぐに疎開先に戻されたんですけどね。その柱もちゃんとまだそのまま残っていましたよ。
諏訪:いやあ……戦中のお話は、面白い、と言ってしまっては不謹慎かもしれませんが、とにかく今の私たちには想像できないようなことばかりで、心して拝聴せねばという気持ちにさせられます。
戦後、仲間を求めて舞台の世界へ
諏訪:ここまで小学校中学校時代のお話を伺ってきましたが、その後、舞台の道に進まれたのでしょうか。
羽佐間:そうですね。その頃は戦争で家族が散り散りになった人もたくさんいましたし、ひどい時代だったんですよ。おのおの本当に孤独な生活を強いられる中で、仲間と一緒に手を結べば少しはいいなという思いで、舞台芸術学院という学校に入りました。
諏訪:池袋に今もある俳優の専門学校ですね。そこに進学された理由は?
羽佐間:そこで副学長をされていた土方与志という人、築地小劇場を作った演出家の方ですね。その人と、学長だった児童文学作家の秋田雨雀に憧憬をもって、ですね。
諏訪:では、かなり早い段階で役者や舞台の道に進もうと思われていたんですね。
羽佐間:いえ、その時点でプロフェッショナルになろう、とまで思ったかどうかは分かりません。けれど、そこで初めてシェイクスピアに触れたり、当時流行りだったロシア文学に浸ったりということがあって、その後劇団に入っていくことになる、という感じですね。
アルバイトを通じてエンターテインメントの世界へ。
諏訪:羽佐間さんの劇団員時代のお話は、以前、僕のラジオに来ていただいた時に伺ったお話が非常に印象的でした。『まじっく快斗1412』の時ですから2014年、もう8年前のことになるんですね。主人公の快斗を支えるジイちゃんこと寺井黄之助という役でお世話になりました。
羽佐間:いやいやもう、諏訪さんにはお世話になっています。この業界で名が轟いていますからね、諏訪さんは。
諏訪:いえいえ……で、その時伺ったお話が、寄席でのアルバイトのお話でした。
羽佐間:ああ、その話ね。私の母の弟、つまり叔父が東京駅の助役にまでなった人なんですけど、彼がものすごく演芸が好きだったんですよ。
諏訪:演じる方? ではなく?
羽佐間:演じる方ではなく、マネジメントの方ですね。(林家)正蔵の息子の方の(初代)林家三平を見出して育てたのは彼ですし、(古今亭)志ん生や(桂)文楽、(三遊亭)圓生など当時の名だたる落語家たちとも親しくしていました。
僕も落語の寄席が好きだったんですが、やがて叔父が神田の立花亭という寄席の席亭(寄席の経営者)になるんですね。僕はその頃学校に通いつつアルバイトをしていて、つまり職業がないわけです。そこで叔父が「寄席の切符売りをやれ。金を扱わせるなら親戚の方がいいから」と。
諏訪:チケット売りのアルバイトを始められたんですね。
羽佐間:昼間は学校に行って夜は寄席に行って、という生活ですね。
諏訪:その当時の寄席というのは、やっぱりお客さんがひっきりなしに来るものなんですか?
羽佐間:いやいやそれはもう! 神田の須田町の角にあったんですが、ものすごく人気がありました。その叔父さんの関係でネットワークも広がりましたね。NHKの松内則三さんというアナウンサー、「神宮外苑にカラスが一羽、二羽、三羽……」という名文句でアナウンスをした人なんですけど、そういった人たちが手伝いに来たり、プロレスラーの力道山が来て空手チョップの実演なんかをしたりしてね。寄席は10日で1つのプログラムを組んでいるので、月末31日になると1日余るんです。そこでいろんなイベントをやってそれを習慣化して、人気を築いていたんですね。
諏訪:大人気シアターだったんですね。
羽佐間:まあ、その頃は寄席というもの自体があちこちにあったんですけどね。上野や新宿のも健在でしたし、浅草にもありましたし。
諏訪:当時、寄席がそういうイベント性に優れた場所だったというところに驚きを感じます。
声で演じ、人を楽しませることへの目覚め
羽佐間:そういうところで教わったことはいっぱいありましたね。寄席というのは、夜、芸者を連れて旦那衆が来るところだったんですが、そこで僕は「てけつ」の中に入ってチケットを売っていたんです。
諏訪:「てけつ」というのは?
羽佐間:英語のチケットでも寄席の専門用語でもなんでもなくて、「手」の「穴」と書いて手穴、すなわち、箱の中に販売員がいて、お金やチケットのやり取りを穴のような小さな窓を介してやっていたんです。
諏訪:顔が見えないということは、お互い声と手だけでお客様とコミュニケーションをしていたんですね。
羽佐間:そういうことです。そしてそれはだいたいおばあちゃんとか、女性の仕事だったんですね。当時の僕は若い美しい手をしていましたから、声色も若い女性の声の方がいいのかな? と思ってそういう声で対応してみたんですよ。それで酔っ払いに手を掴んで引っ張られて、「あれー、たすけて」なんて言ったりね(笑)。それが僕の声優業の始まりです(笑)。
諏訪:(笑)それは確かに、声真似であり、演技ですよね(笑)。
羽佐間:そう、自然とね(笑)。そういうお客様とのやりとりの一方で、中に入れば志ん生、文楽、圓生とずらりと並んだ名人たちの寄席芸も聞ける。そういう環境の中でますます演じるということに喜びを感じるようになった、のでしょう。か?
諏訪:いやそこでクエスチョンマーク要らないでしょ(笑)!まさにその通りだと思います。それにしても、表では客さんと接して裏ではプロの方々と近い距離におられ、エンターテインメントについて学ぶ上で素晴らしい環境だったんですね。
落語家に学んだ、人を楽しませるテクニック
羽佐間:距離はとても近かったですね。当時はですね、(林家)三平なんて本当にまだ若かった頃ですよ。
諏訪:僕の知っている三平さんの先代の方ですね。
羽佐間:その当時、作家で文芸評論家の伊藤整が書いた『女性に関する十二章』という本が爆発的に売れていたんですが、三平が「『女性に関する十二章』、持ってます?」と言うんで貸したんですよ。すると明くる日にはもうそれをネタにして一席やっちゃうんですね。彼が『女性に関する十二章』を読んでるってこと自体、お客さんにとってはたまらなく面白くてまたそれがうけるんです。
諏訪:羽佐間さんも当時のベストセラーをちゃんとおさえてらっしゃったんですね。
羽佐間:僕はただ流行りに乗っかっただけですよ(笑)。でも彼にはこういうことができるんだなあ、創作意欲があるなあとは思わされましたね。彼だけですよ、途中で入ってきた客に舞台の上から「おしっこ? おしっこするならあっちだよ!」なんて声をかけたりするのは。
諏訪:即興でお客さんをいじっちゃうんだ。
羽佐間:そう、いじっちゃう。
諏訪:なるほど。日中は劇団員として活動しつつ、夜は寄席の場で、声を演じることやお客さんを楽しませることといった、羽佐間さんにとって根底となるような経験をされていたんですね。
それでは次回は、羽佐間さんが俳優としてプロになられた当時のこと、そして吹替というお仕事を始められた時のことなどについて伺おうと思います。
(vol.2へつづく)
聞き手:諏訪道彦
取材・構成:いしじまえいわ
撮影:成田剛(UNAP)
INTERVIEW インタビュー
聞き手:諏訪道彦
取材・構成:いしじまえいわ
撮影:成田剛(UNAP)
TVシリーズアニメーション『シティーハンター』や『犬夜叉』で、人生の苦楽?を共にしてきた先輩・植田益朗さんが、また何か大きなコトをやらかそうとしています。出会って36年、植田さんのとにかく前を向いて行っちゃおう思考の企画ブルドーザー手腕には、いつも目を覚まさせられる驚きを受けています。そしてまた今回もそれがやってきました。おそらく完成形は途方もないサイトになるでしょうが、まずはスタートにあたり、その行先を一緒に見つめていきたいと思います!
諏訪道彦(アニメ企画プロデューサー)