INTERVIEW インタビュー
レジェンド声優にこれだけは聞いておきたい!
羽佐間道夫さんvol.2 吹替という仕事の台頭
羽佐間道夫が語るTV放送と声優の黎明期。
様々な状況が折り重なって「吹替」という仕事が台頭した。
苦労と出会いの新劇役者時代
諏訪道彦さん(以下、諏訪) : 前回の記事では、レジェンド声優の羽佐間道夫さんに、役者として活動を始められるまでのお話の数々を伺いました。今回はまずは、羽佐間さんがプロの道に進まれた時のことからお話をお伺いしようと思います。やはりプロになるのは大変な道でしたか?
羽佐間道夫さん(以下、羽佐間) : それはもう大変でしたね。だって、僕は本当にご飯が食べられなかったんだから。僕は28の時に結婚をしているんですが、カミさんの記録によるとその頃までは大赤字、借金の領収書しか財産がなかったって言っていました。だからそれまでは稼げることが何もなかったわけです。
諏訪 : ではその頃まではプロの役者を目指して劇団員として活動をされていたということですね。寄席でアルバイトをされていたということでしたが、そちらの方面でお仕事をしようということはなかったのですか?
羽佐間 : 確かに、そういうお声をいただいたことはありますね。(三遊亭)圓生さんから「あんたは見てくれも大したことないんだし、こんなところでひとつ噺でも勉強したらどうだ?」なんてね。志ん生さんも志ん生さんで、男の子が演劇を勉強してそこで働いているって知って「帰りに蕎麦食べるぅ?」なんていって誘ってくれてね(笑)。若くて貧乏だったから有り難かったですよ。神田の藪そばという有名なお店に連れて行ってもらって、「蕎麦はチョコッとつけて、ピュッて飲むんだよ。噛むんじゃないよ」と、蕎麦の食べ方も教えてもらいましたね。
諏訪 : 先ほど、28歳でご結婚をされたということでしたが、奥様も劇団の方で?
羽佐間 : いいえ、役者をしながら、紆余曲折あって外国映画の吹替をするようになるのですが、その頃スタジオで会ったんじゃないかと思います。向こうは当時のことを今でも覚えていて「スタジオの隅の方に居て、暗い人だなあ」「なんかニヒってて、格好つけて斜めに構えて……」ってね(笑)。
諏訪 : 今の羽佐間さんのナレーションの印象とはかけ離れていますね(笑)。
羽佐間 : それまで新劇(※歌舞伎などとは異なる西洋の様式を取り入れた演劇形式。演出家・土方与志が基礎を築いたとされる)の訓練ばっかりしてきたから、当時は吹替の現場で緊張していたんでしょうね。今じゃ逆に「あの頃みたいな風に少しはできないのか」と言われたりもしていますが(笑)。そこで出会ってなんとなく付き合い始めて、という感じでしたね。それで結婚するときは……僕、こんなに話題を脱線しててもいいんですかね?
諏訪 : 全然大丈夫です(笑)、ご結婚されるに至るお話を、どうぞ続けてください。
芸は身を助ける?結婚の決め手になった一つの振る舞い
羽佐間 : 母がね、僕が付き合ってる女の子に何かにつけてケチをつけて認めない、「ノー!」と言うわけですよ。息子を取られると思って嫉妬心が芽生えたりするんですかね。その一方で、ジャズピアニストの山下洋輔という人がいまして、そのお母さんが僕の母と東京女学館という学校で一緒だったんです。
羽佐間 : 山下洋輔さんのことは存じ上げております。先日まで読売新聞で連載されていた『時代の証言者 無法者のジャズ』、拝読しました。
羽佐間 : 同級生の息子ということで、僕も洋輔さんのお母さんにものすごく可愛がられてたんですよ。そこで僕はまず、洋ちゃんのお母さんのところへ今のカミさんを連れて行ったんです。
そしたら洋ちゃんのお母さんがその場でうちの母に電話して「絶対にあの人に家に来てもらいなさい!あなたも納得しなさい!」みたいなことを言ってくれて。自分の母が一番の関門だったんだけど、なんだかよく分からないけれど山下さんが全部決めてくれて。それで晴れて一緒になれました、というわけです。
諏訪 : なんとも不思議な展開ですね(笑)。ところで、山下さんのお母さんはどうして奥様にOKを出されたんでしょう? 奥様の何を気に入られたんでしょうか?
羽佐間 : 思い当たることはひとつしかないんだけど。僕が「洋ちゃんの部屋でピアノを弾いて歌でも歌ってくる」と言って部屋を出たんですが、そこに座らされていたうちのカミさんも「一緒についていっていいでしょうか」と言ってついてきたんですね。そこで廊下に出ていく時、お茶の仕草と同じように膝をついて「失礼します」と言ってお辞儀をしてから両手をちゃんと添えて障子を閉めたそうで、あとは僕と一緒にバカな歌を歌ったりしていたんだけど(笑)、本当にそれだけなんです。
諏訪 : なるほど、そこで奥様の育ちの良さや教養を感じられたのかもしれませんね。
吹替デビューとなったラジオドラマと、やってきた海外ドラマの時代
諏訪 : 先ほど役者をしつつ紆余曲折あって外国映画の吹替をするようになった」と仰っていましたが、その経緯について教えてください。
羽佐間 : これもまた私の母の学生時代のクラスメイトに岡田さんという三味線の御師匠さんがいまして、その長男が後に吉永小百合と結婚する岡田太郎さんなんですね。そして彼も僕の幼馴染でもあるんです。
諏訪 : フジテレビのディレクターや共同テレビの社長、会長にもなった岡田太郎さんですね。それまたすごい話ですね。
羽佐間 : 僕が演劇の学校にいた時に彼はフジテレビの前身となる文化放送にいたんですが、僕が学校で芝居をやっているという話を聞いて彼が「ラジオドラマで来ないか?使えるかもしれないよ」と誘ってくれて、それを契機に演劇をやりながらラジオドラマの仕事を始めたんですね。当時、その少し前に1952年に放送開始された菊田一夫さんのラジオドラマ『君の名は』がブームになっていて。
諏訪 : 『君の名は』は後に作られた映画やTVドラマも有名ですが、元はラジオドラマとしてヒットしていたんですよね。
羽佐間 : ラジオドラマの現場には根上淳さんなど名俳優が綺羅星の如くいらっしゃったんですが、僕もその中に混ざらせていただいて。じきにナレーションなんかもするようになって、ちょこっとだけ飯が食えるようになってきた。そのうちに、僕のやっていたラジオドラマを聞いてくれていたのか、日テレの海外ものの吹替プロデューサーに「今度うちで『ホパロング・キャシディ(われらのキャシディ)』という西部劇の番組を作るんだけど、一度テストを受けてみないか?」と誘ってもらえる機会があったんです。それを受けて。
諏訪 : 受かられて。
羽佐間 : それでまた、大変貴重な現場に入れていただきました。岡譲司さんという大スター、二枚目俳優がいらっしゃったんですけど、彼が主役のホパロング・キャシディ役。僕はそのサポート役のカウボーイのレッドという役をやらせていただきました。
他にも『ニッカ ヒッチコック劇場』とかありましたが、当時はとにかく人がいないんです。
諏訪 : 人がいない、というのは、吹替ができる演者がいないということですか?
羽佐間 : そう。最初は歌舞伎の方面なんかで人を探していたそうなんですが、やがてアンサンブルができる人がいい、新劇の研究生が安く使える、という流れになっていったようで。僕のいた新協劇団(現・東京芸術座)の人たちが狩り出されていくんですね。俳優座の愛川欽也とか劇団「葦」の藤岡琢也とかがその頃同じような経緯で集まってきて、吹替という仕事がだんだん広がっていく、ということになるんですね。日テレの他にも、NHKのラジオなんかもやったりしていましたね。そういった仕事をどうやって請けたのかは覚えてないんですが、多分劇団の方に発注があったんじゃないかな。
諏訪 : 劇団が依頼を請けて、その役に合う役者を選んで送り出す、今でいう事務所みたいなことをしていたのかもしれませんね。
時代が求めた吹替俳優
諏訪 : 羽佐間さんがいろんな役をおやりになられるというのは今でも変わらずですが、当時から縦横無尽に対応されていたんでしょうか。
羽佐間 : またまたまた……先ほども言いましたけど、そもそも人がいなかったんじゃないですかね(笑)。僕らの調べでは、この声優というジャンルに入れるだろう人は300人だったんです。
諏訪 : 300人というのは、多いようにも少ないようにも感じる数字ですが……
羽佐間 : 当時、TV番組をゼロから作ろうとするとものすごく時間がかかっちゃうんだけど、外国の番組を借りてきて吹替を入れれば1時間番組でも簡単に作れちゃう。それでTV業界全体がそちらの方向に傾いでいってしまっていた時期なんですね。各局の海外番組やラジオドラマを、脇役も含めて全ての役を300人で演じないといけないわけですから、当然人が足りません。だから当時でも300人では少ないんです。「ゴールデンタイムに突っ込むのはあれ(海外ドラマの吹替版)しかない」ということで、もう全局が吹替俳優を欲しがっていたんです。
諏訪 : 吹替ができる人が足りなかったのもそうですし、その前提として、当時日本でTV放送が始まった初期の頃は今と違って全時間帯の番組を国内で制作するだけの制作力がなかったんですね。
羽佐間 : 本格的なドラマを自分たちで作ろうとしていたのは当時NHKくらいだったんじゃないでしょうか。そんな時期に枠を埋めるのに便利な海外ドラマがどんどん入ってきて、僕らはコンビニエンスに使われていた、というわけです。
諏訪 : では、どちらかというと枠を埋める吹替ができるかどうかが大事であって、役者としての演技力というのはそれほど重視されなかった……のでしょうか?
羽佐間 : 芝居はちょっとかじってる連中ばかりだったかなあ……でも一応、ドラマの吹替で特に重要な、会話の芝居はできるんですよ。それが新劇の役者の場合基本の一つなので。だからこそ新劇の研究生がいっぱい動員されたんですね。それが吹替俳優の始まりだったんじゃないかと思います。
水戸黄門が全否定!? 先輩俳優に白い目で見られた吹替という仕事
諏訪 : 私の年齢ですと、「声優という仕事は舞台俳優がバイトのような感覚でやっておられて、本来顔出しの仕事の方がメインであるべきなので、声だけの演技をする声優は亜流と評された時代もあった」と聞いたりもしているのですが、実際そのような感じだったのでしょうか?
羽佐間 : そういう風潮はずいぶん長いことありましたよ。初代水戸黄門を演じた東野英治郎さんに言わせれば「人の人格にテメエが何でセリフ付けなきゃいけねえんだよ、冗談じゃねえよ」ということです(笑)。
諏訪 : 水戸黄門にそんなことを言われたらたまりませんね(笑)。
羽佐間 : 俳優の宇野重吉さんも吹替をやったことはやったんだけど「こんなこととてもできない」と。滝沢修さんもかな。少しはやったんだけどみんな敬遠した。そういう感じだったから、吹替は先輩俳優からはずいぶん斜めに見られましたよ。そんな中で僕たちのような研究生がコソコソとやっていた(笑)。
諏訪 : コソコソと(笑)。やはり白い目で見られたりしていたんでしょうか。
羽佐間 : 本当に、白い目でね!芝居の稽古をしてる最中に「ちょっとすみません……お仕事で、ちょっと行ってきます」なんて言うと「何だよ、何をやるんだよ」と聞かれますよね。そこで「吹替を……」と言おうものなら「バカヤロウ!そんなところに行くな、ここで芝居をやれ!」ですよ。もう随分怒られましたよ(笑)。それでみんなコソコソとアルバイトの吹替をしに行くわけです。
諏訪 : お金だって大事ですもんね。仕方ないですよね。
羽佐間 : そういう風に何か重たさを背中に背負いながらスタジオに行って。でもスタジオには同じような境遇の人たちばかりだから、すごくリラックスできましたね(笑)。
諏訪 : いやあ、すごい時代ですね、やっぱり。
サンダース軍曹を驚嘆させた当時の吹替のギャランティ
諏訪 : 羽佐間さん個人に関して言えば、この時期吹替のお仕事が来るようになって、役をきちっとこなされたことでお仕事が増えて、軌道に乗っていった、ということなんでしょうか。
羽佐間 : 今から考えると安かったですけどね。1件数千円、という世界でしたよ。1962年に放送が始まったTBSの『コンバット!』の時は確か4,500円……だったかな。
その主人公のサンダース軍曹を演じた俳優のビック・モローが日本に招待されて来たことがあったんですよ。通訳がアナウンサーの野際陽子さんでね。そこで野際さんが私に「ビック・モローが『あなた方は(自分たちの吹替で)いくらもらってるんですか?』と聞いてますよ」と言うんですよ。
諏訪 : (笑)
羽佐間 : それで正直に「4500」って書いて渡したら、ビック・モローが「いいじゃない!こんなにもらって!!」と感嘆して。当然、4500ドルだと勘違いしたんですね(笑)。
諏訪 : 当時はまだ1ドル360円の固定相場制ですよね(笑)。
羽佐間 : ドルに換算すれば本当は10数ドルのところを、4500、ですからね。「俺より高いじゃねえか!」ってね(笑)。
吹替俳優が台頭した業界文化的・技術的背景
諏訪 : 『コンバット!』は僕も幼い頃に見ていて、おぼろげながら覚えています。
羽佐間 : 当時は他にも私立探偵もののドラマの『サンセット77』なんかもありましたが、ゴールデンタイムは全部海外映画、海外ドラマでしたね。ご存知の通り当時は五社協定があって、日本の映画界がTV局に邦画のフィルムを貸してくれなかったんですね。
諏訪 : 映画が大衆娯楽メディアの王道だったところに家でも映像が見られるTVが出てきた時代ですから、まだ「TVは映画の敵」という認識でしたからね。
羽佐間 : 2時間の枠を映画に頼らずTV局だけで用意しようとすると大変ですよ、それだけで1カ月2カ月かかっちゃいますから。そこで、既に出来上がっているフィルムを持ってくればいい、ということで、西部劇の『ローハイド』や刑事ドラマの『アンタッチャブル』などの海外ドラマが次々放送されていくことになります。
当時はTVはもちろんブラウン管で、性能も満足できるものじゃなかったですから、字幕を入れてもよく読めないんですね。「闇の中の魑魅魍魎」なんて書こうものなら全部ダンゴですよ。
諏訪 : (笑)
羽佐間 : 表示できる文字数も10数文字程度ですから、ちょっと長い文章はもう映像の横幅に収まらず表現できない。そういうこともあって、吹替のブームが始まるんですね。
真剣勝負! 海外吹替黎明期の収録事情
諏訪 : 技術的なお話をもう少しお伺いさせてください。当時の収録環境はどういった感じだったんでしょうか?
羽佐間 : 『ホパロング・キャシディ』の頃は、巨大なオープンリールを使ってレコーディングをしていたんですが、吹替の音が3分間しかフィルムとシンクロできないんですね。それ以上やっても映像と音がズレてきちゃう。だから30分番組なら3分ずつ、10ロール分の収録をしていました。その後、16ミリと同じような大きさのテープができるんですが、それは今度は28分しかシンクロしない。
諏訪 : 3分から28分だからすごく進歩はしていますね。
羽佐間 : そうなんですが、1時間半の映画であれば3ロール要るわけです。で、そこには当時の面白い話がいっぱいあるんだけど……
諏訪 : 28分1本録りだから、その間にミスをしてはいけない、とか?
羽佐間 : そうそうそう(笑)。途中で失敗したら最初からやり直しですから、真剣勝負ですよ。また、映写室の中二階みたいなところに撮影の方が寝そべって映写機を管理されていて、こっちがマイク前でミスをしたらそういうみなさんが「はーい、じゃあ前のシーンまで戻してねー」とか言って伏せたままフィルムを回していましたね。そういう感じで技術者のみなさんにお世話になりながらの収録だったので、今みたいに簡単に「はい、じゃあちょっと前から行きましょう」とか絶対できないんです。まあ、そういう時代もありましたね。
当時最先端だった吹替の魅力、そしてTVアニメの登場へ
諏訪 : 僕も当時のTVドラマを見ていましたけど、吹替の演技が映像の演技に正しくシンクロしていることによって、海外ドラマで描かれるその場面やその土地の空気を遜色なく伝えてきた。そのプロの仕事の積み重ねが、その後の吹替や声優という仕事の台頭につながったのだと思っています。
羽佐間 : それはどうかなあ……お伝えした通り当時の業界の状況や技術的な条件の結果という面もありますし……でも確かに、一生懸命役者の演技をなぞって頑張ってはいましたよ。僕はよく自分の仕事を「塗り絵師だ」と言っていました。つまり、形あるものは既にあるわけです。
諏訪 : 海外ドラマは映像作品としては一度完成しているわけですもんね。
羽佐間 : そう。映像はあるし、音楽もある。悲しいシーンならちゃんとそれを盛り上げるマイナーな音楽が被ってきます。だから僕らは既に雰囲気ができている上で吹替の演技を作り上げていったわけで、そういう意味ではノッて演じられたというところはあると思います。
『ローハイド』なら、ブラウン管の中から牛の大群が「ローレンローレンローレン!」という主題歌付きでこっちに迫ってくるわけですよ。リハーサルで初めて見たときはのけ反ったもんね。『アンタッチャブル』であれば、殺し屋の連中がこっちに向けて機関銃をブワーーッと撃ってくる。それを見て思わず伏せちゃったりね(笑)。今からすればナンセンスな話ですが。
諏訪 : 当時はそれだけ海外ドラマの数々が新鮮で迫力があったということですね。
羽佐間 : 新鮮でしたね。アングルも驚異的だった。そういった部分がみんなの心を捉えたんだと思うんですよね。また『凸凹劇場 アボット・コステロ』のような喜劇役者たちの演じるコメディものが流行り出した。そこで重視されるのは会話です。語り口の軽快なものがどんどん出てくるようになった。そしてやがて漫画、今でいうアニメが出てくるようになる、と、そういう流れでしたね。
諏訪 : そうして本邦初のTVアニメシリーズとされる1963年の『鉄腕アトム』の放送が始まって、アニメの吹替に特化したという意味でのいわゆる「アニメ声優」という仕事が生まれてくるんですね。
では次回は、羽佐間さんが演じられたアニメ作品や、アニメ業界に関する話題を中心にお伺いします。
(vol.3へつづく)
取材・文:諏訪道彦
取材・構成:いしじまえいわ
撮影:成田剛
INTERVIEW インタビュー
聞き手:諏訪道彦
取材・構成:いしじまえいわ
撮影:成田剛(UNAP)
TVシリーズアニメーション『シティーハンター』や『犬夜叉』で、人生の苦楽?を共にしてきた先輩・植田益朗さんが、また何か大きなコトをやらかそうとしています。出会って36年、植田さんのとにかく前を向いて行っちゃおう思考の企画ブルドーザー手腕には、いつも目を覚まさせられる驚きを受けています。そしてまた今回もそれがやってきました。おそらく完成形は途方もないサイトになるでしょうが、まずはスタートにあたり、その行先を一緒に見つめていきたいと思います!
諏訪道彦(アニメ企画プロデューサー)