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INTERVIEW インタビュー

(04-06)

エモーション魂

(2022.12.02)
第一回
青春立志 玩具の殿堂へ

夏の日のウルトラマン。子供たちが自分の心に火をつけた

―――まず、渡辺さんがバンダイに入社されたところからお話を伺わせてください。

渡辺:自分が入社したのは、バンダイ・グループの一社だった株式会社ポピーという会社です。1981年の4月のことでした。

―――ポピーといえば、それまでに『仮面ライダー』の変身ベルトや、『マジンガーZ』の超合金など、現在のキャラクター玩具ビジネスの基礎を作ったメーカーですね。当初は、玩具企画に携わられたかったわけですか?

渡辺:というよりは、子供たちを楽しませる映像作りに関わりたいと思って就職したのです。きっかけとなったのは、学生時代のアルバイトで『ウルトラマン80』の玩具の販売促進のお手伝いをしたことですね。

―――『ウルトラマン80』の放映は1980年ですから、就職活動シーズン真っ直中ですよね。

渡辺:そう。1980年の8月でした。自分は法学部の学生で、大学入学当初は当然のことのように法律家を目指して勉強していました。しかし、同窓の友人たちは自分と違って実に頭がいいし、一方、自分は理屈が大の苦手だったので、「こりゃ、法曹には向かんな」と早々に判断してドロップアウトしました(笑)。

ならば、学生のうちに実社会をたくさん見てやろう!と、もっぱらアルバイトに精を出しました。家庭教師などは初歩の初歩で、道路工事から、林間学校の指導員、魚河岸のアルバイトまでいろいろやりました。

その中で偶然巡り会ったのがウルトラマンショーのバイトでした。自分の小学校の同級生がやっていたことを知って、紹介して貰ったのが始まりです。

―――渡辺さんは、アニメや特撮などのファンサークルに所属していたわけではなかったのですか?

渡辺:いいえ。そういうファン活動とは無縁でしたね。

ですが、もともと物心ついた時から映画は大好きでたくさん見ていましたし、小学校3年生の時(1966年)に『ウルトラQ』や『ウルトラマン』の放映をリアルタイムで見ている世代なので、ウルトラマンショーのアルバイトには、興味以上のものはありました。

―――入社のきっかけとなった『ウルトラマン80』のショーのアルバイトというのは、具体的にはどんな内容だったのですか?

渡辺:東京の葛飾区亀有。その駅前にとあるおもちゃ屋さんがあったんです。

『ウルトラマン80』は、当時、久々の実写のウルトラヒーローということで、ポピーがスポンサーとなり、玩具販促の店頭キャンペーンを全国で展開していました。

で、その駅前の「くさま」さんというおもちゃ屋さんにもウルトラマン80がやって来て、ショーや握手会をすることになったわけです。まぁ、キャンペーンと言っても、そんなに大がかりなものじゃないから人数もほんのわずか。自分が80の着ぐるみに入って、簡単なショーをやって、子供たちと握手して、ウルトラサインを色紙に書くという。

いやぁ、夏の真っ盛りですから、キツかった。1日4キロは痩せました。でもね、着ぐるみのお面の狭い視界の中から、子供たちの姿が見えるわけです。もちろんやっているのは素人の動きだから、正直そんなに格好良くないはず。でも、そんな自分が入っているウルトラマンでも、子供たちは「おおおおっ!!」って歓声を上げてくれるんですよ。

で、いくらしんどくても、ついつい頑張ってしまう。ショーの後のサイン会でも、色紙を持って行列に並ぶ子供たちは、本気でドキドキしながら順番を待ってくれていたんです。そして、そんな子供たちの中に、自分はある小さな女の子の姿をみとめました。その子は、1日3回のショーを3回とも最前列の同じ位置で見てくれて、本当に喜んでくれていたのでした。

あの時見たキラキラとした目の輝きは今も忘れられないほど印象的だった。

この時に自分の中で確固たる覚悟が決まったんですね。

「よし! この子たちを楽しませる仕事に就こう」って。

ウルトラマンのアルバイト

―――ファンダムの活動とは無縁な分、その決意はピュアな感じがしますね。

渡辺:そうですね(笑)。たしかに、かなり素直な気持ちで「子供のための作品づくり」を人生の進路にしようとして選択したのは、事実ですね。

いざ、ポピーへ! 待っていたのは、綿アメ袋と証紙の山?

―――そこで、男子キャラクター玩具の雄、ポピーに入られたわけなんですね。

渡辺:ええ。入社したからには、子供のための映像製作に近い立場にあった商品開発のセクションで、いつかは仕事をしたいと思ったのですが…。

意に反して、最初に配属された部署は、経理部でした。

法学部出身だったんで、版権管理を任せようということだったらしいです。

版権管理といっても、最初は商品に貼る「証紙」を版権元に申請し、自分で先方に行って回収するという仕事でした。

―――「証紙」とは商品の許諾契約の証として箱や商品に貼付されるシールですね。実際はどういうタイミングで受領するんですか…。

渡辺:毎週水曜日でしたね、その証紙を東映や東京ムービー、小学館プロなどの版権元に営業車で行って、回収して、それを玩具工場に納品するんです。

―――今、営業車とおっしゃいましたが、それだけの量があるってことですよね?

渡辺:ありましたねぇ。よく憶えているのは、ちょうど『Dr.スランプ アラレちゃん』ブームの時のことですね。当時、新宿の靖国通り沿い花園神社脇にあった東映動画(現・東映アニメーション)の版権部に伺って『アラレちゃん』の商品に貼る証紙を取りに行った時の事。綿アメの袋用のものなどもありましたから、数十万枚とあるんです。それが、大量の段ボール箱に入っているんで、台車を借りて、版権部のフロアと駐車場を何往復もして積み込み運びました。ブームになると、しんどかったですね。

ポピー社屋。社史「万代不易」より

―――綿アメ袋の販売も取り扱っていたんですか?

渡辺:当時、ポピーの開発の長で、同社の常務だった杉浦(幸昌)さんが、下請けのメーカーをコントロールして不正が出ないようにしていたんですよ。

綿アメ袋もそうですが、祭の夜店のお面とか、勝手に型を起こして海賊版を売っているわけですよ。そのへんを取り仕切って正規許諾商品として版権申請から証紙納入まで代行してやっていたんですね。自分はこうした版権管理の仕事を一年近くやりました。

―――商品開発希望が、ずいぶん違った仕事になってしまいましたね。

渡辺:開発担当になるには、普通は営業部、販促部を経て行く必要があるというのが当時の考え方と聞いていました。それからすると経理配属は開発に行けるのとは、全く違うコースなんです。これじゃ、開発マンにはなれない……当時は腐ったこともありましたね。

でも、どんな仕事も決して無駄にはならないと思い直して、自分なりに一生懸命やりました。それがよかったのだと思います。この仕事のおかげで、各プロダクションや製作会社の版権部の方とお知り合いになれた。それぞれの現場の雰囲気の違いというのも直に感じ取ることも出来ました。

中でも日本アニメーションの方とは縁が深かったようです。

自分が担当した当時、日本アニメさんへのバンダイの玩具の商品化申請はほとんど無かったのですが、綿アメ袋の商品化申請だけは、なぜか毎週必ずあったんです(笑)。『フーセンのドラ太郎』や『南の虹のルーシー』とか。だから、銀座の版権窓口のビルに証紙を取りに行くと「おお、また来たの? 綿アメ袋」とか言われて(笑)。

でも、後にエモーションで『未来少年コナン』や『世界名作劇場』のビデオグラムをやらせていただけるようになったのは、この時の縁ですからね。他のビデオの版権を交渉に行くときも、先方のご担当は、証紙引き取りの時、毎週必ず顔を合わせる方々がほとんどだったので、それはやりやすかったですよ。

―――何が、どう繋がるか分からないですよね。

 

to be continue……

玩具開発を志してポピーに入社した渡辺だったが、まったく畑違いの部署で悪戦苦闘する。だが、その不屈の情熱が最初の奇跡を呼ぶ。

次回「開発部異動」にご期待ください。

【補足解説】

「ウルトラマン80」
ウルトラシリーズ第9作目。1980年4月2日から1981年3月25日までTBS系で毎週水曜日19:00~19:30に放映。全50話。ウルトラシリーズは、1975年に放送を終了した『ウルトラマンレオ』をもって一時中断されていたが、アニメーション作品『ザ☆ウルトラマン』(1979年)として再開、その次回作として製作された。実写作品としては5年ぶりの作品。
「ヒーローショーと着ぐるみ」
アニメや特撮番組やそのキャラクター商品の宣伝活動の一環として、デパートなどの特設ステージで行われるアトラクションを通称「ヒーローショー」と呼ぶ。その歴史は古く、東宝怪獣映画、初期ウルトラ作品などでも怪獣握手会などが催されてきた。そこでは、実際に撮影で使用されている着ぐるみとは別のアトラクション用スーツが使用されることが多い。アトラクション用スーツは、着脱を簡単にし、軽量化が図られているため、外見的には撮影用のものを簡略化した観がある。
「円谷プロダクション」
円谷英二氏により設立された映画製作会社。1963年4月12日設立。ウルトラシリーズを始めとする数多くの特殊撮影を中核としたテレビ番組や劇場用映画を製作し続けている。通称「円谷プロ」。
「株式会社ポピー」
株式会社バンダイ傘下の玩具メーカーとして1971年に発足。当初より児童向けのテレビ番組と連動した玩具類を製造・販売。劇中に登場するキャラクターや小道具を玩具化して一大ブームを呼ぶ。その後1983年にバンダイに吸収合併され、同社のボーイズ・トイ事業部に再編された。2001年に社名としてポピーが復活している。
「超合金」
当初、男児玩具の材料はブリキやソフトビニール、プラスチックが中心であった。株式会社ポピーは、1972年に放映された『マジンガーZ』の商品化にあたり、巨大ロボットの重厚感を再現するため、ミニカーなどに使用されていた亜鉛合金のダイキャストパーツを採用。また、製品名も劇中のマジンガーZの装甲材である超合金Zからとり、徹底したキャラクターの再現に努めた。この方策が功を奏し、超合金は大ヒットとなり、その後のロボットキャラクター商品のフォーマットとなる。
「綿アメ袋」
祭りの縁日などでは欠かせない存在である綿アメ。綿アメは、潰れやすく、湿気に弱いため、空気でパンパンに膨らませたビニール袋の中に収められ、屋台にディスプレイされる。そのパッケージであるビニール袋には必ずと言って良いほど現行のテレビアニメ特撮のキャラクターが印刷されている。
「版権証紙」
アニメーションや特撮作品などに登場するキャラクターは、著作権法で保護されており、著作権者の許諾無く、勝手に商品化は出来ない。そこで、メーカー(あるいは個人)が商品にキャラクターの名称や形態などを使用したい場合は、「商品化権」と呼ばれる権利の許諾を受けなければならない。また、商品化権の許諾を受けた側は、権利者から、使用料を支払った商品であることを明らかにするために、証紙を貼付するよう要求される。これがいわゆる「版権証紙」である。商品のパッケージに貼りやすくするため、多くの場合シール状になっている。これは、許諾済商品を証紙によって識別し、無許諾で製造された商品が、市場に出回らないように監視できるようにしているのである。
「東映動画」
現・東映アニメーション株式会社。1948年、日本動画株式会社として東京都新宿区原町に設立、アニメ製作を開始。その後、日動映画株式会社へ商号変更するが、1956年東映株式会社が同社を買収、東映動画株式会社となる。ディズニー映画のような、劇場用長編アニメーション作品の制作を日本で独自に行うことを構想、1958年に『白蛇伝』を完成。以降、数多くの劇場作品、テレビ作品を世に出す。前述の『マジンガーZ』も同社の作品。文中の新宿営業所は、1973年から1994年まで、東京は新宿の花園神社そばにあった。
「日本アニメーション」
日本アニメーション株式会社。1975年3月、ズイヨー映像の施設と多数のスタッフ・製作途中の作品を引継ぐ形で設立される。そのため、ズイヨー時代の『アルプスの少女ハイジ』(1974年)、『フランダースの犬』(1975年)などのいわゆる「名作シリーズ」を続けていくことになる(1996年『家なき子レミ』までの23作品)。文中の『南の虹のルーシー』(1982年)も同シリーズ。1978年には宮崎駿氏、大塚康生氏をスタッフに冠した『未来少年コナン』も製作している。

(改稿20070217)

© SHIGERU WATANABE
無断改編や引用などを禁じます。

INTERVIEW インタビュー

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エモーション魂

語り:渡辺 繁
絵:大西 信之

バンダイビジュアルのレーベル「EMOTION」を作った男が、その軌跡と縁人を振り返る。世界初のOVA(オリジナル・ビデオ・アニメーション)『ダロス』、若きスタッフの結集した『王立宇宙軍 オネアミスの翼』などのアニメ作品の数々は、決して順風満帆に作られたわけではなかった。若き情熱溢れる映像ソフト産業の草創期からの話を月2回更新にて連載中。いつの時代になっても変わらない情熱。ここには確かなモノづくりのヒントがある。

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