INTERVIEW インタビュー
エモーション魂
回天 開発部へ異動を命ず
「子供たちに夢をあたえたい」そんな熱き情熱でポピーに就職した渡辺 繁であったが、与えられた仕事は、経理での版権管理。これでは作品づくりに関わることはできない……焦る心を抑えつつ、彼は毎日の仕事を黙々と続けた。そんな彼に思いもかけない転機が訪れる
ポピー・玩具業界の梁山泊
―――渡辺さんが、入社した当時(1981年)のポピーには、どんな方々がいらっしゃったんですか?
渡辺:もの凄い人々の集合体でした。トップは当時、専務の森(連)さんなのですが、自分にとっての実質的精神的なより所は、常務で開発の杉浦(幸昌)さんでしたね。非常に知識もあり、発想も豊かな方なのですが、知らないことは「知らない」と言える潔さもある。さらに「知らないことは聞けばいいんだよ」って、どこへでも臆せず出かけていく方でした。当時、上野駅前にあるヤマシロヤという有名な玩具店で、実際に売り場に立ってお客様の動向をチェックされたり、店員さんに詳しく話を聞いたりしている、などは先輩からよく聞いていた杉浦さんのエピソードです。すでに役員の方が、やはり売り場を第一に考えている。自分も、今でもビデオショップを見回ったりするのですが、これは杉浦さんの影響ですね。まさに「杉浦学校」です。ただし、懇切丁寧に教えてはくれません。だから、盗み取っていくしかないんです。
杉浦さんの優れたプロデューサー的マネジメントに対して、村上(克司)さんというクリエイティブを極めたデザイナーがいらっしゃる。その点では、非常にバランスの取れた会社でした。
今にして思えば、現在のバンダイ社長の上野(和典)さんは3年先輩ですし、副社長の柴崎(誠)君は同期ですよ。「たまごっち」の仕掛人、ウィズの横井(昭裕)さんも3年先輩でしたね。
―――のちのバンダイを支える重鎮ばかりですね。
渡辺:ええ。所帯は小さかったけれど、やれることは大きかった。いろいろなことをやらせてくれました。ポピーは1983年にバンダイに吸収されてしまうんですが、「ポピー魂」というのかな、何か新しいものを生み出そうというDNAが、逆にバンダイを活性化させたのでしょうね。
今でも同期とは飲みますし、OBの方々とも、精神的なつながりは生き続けていると思っています。
宿命の男との出会い
―――バンダイ本社の方々との交流はあったのですか?
渡辺:もちろん。当時のバンダイグループの新入社員は1年間(千葉県)船橋の海神にあった新入社員寮に入ることが義務づけられていて、そこから浅草の会社に通うことになっていたんです。だから、グループの同期の人間とはよく付き合っていましたよ。
その中でも、面白いやつだったのが、鵜之澤(伸)君でしたね。彼は、ホビー事業部に配属されていました。ホビーといえば、当時、「ガンプラ」ブームの真っ直中です。その追い風に乗って、彼は営業もやり、宣伝もやり、版権契約で交渉したり、コマーシャルで代理店とやり取りをしたり、即戦力として活躍していたんですよ。
―――鵜之澤 伸さんといえば、後にエモーション立ち上げの際の渡辺さんの良きパートナーとなる方ですね。
渡辺:彼は早稲田で、自分は慶應。性格も彼は外交的でいかにも営業的、自分はどちらかといえば、あまりオモテに出るタイプではない。最初は、ちょっとライバル心すらいだいていましたね。
でも、鵜之澤君は、版権というものに関して、非常に強い意識を持っていました。自分もポピーの経理で版権管理の仕事をしていたので、いっしょに勉強会を持ったのです。実は、自分の大学の先輩社員が新人教育担当で、勉強会を開くことになったのですが、参加者が自分だけだったので、鵜之澤君を巻き込んでしまったのが真相ですが。
毎週水曜日、始業の1時間前に、バンダイの裏の喫茶店に集まって、著作権法の本の読み合わせをしたんです。いっしょに本を読みながら、これはどういう意味なんだろう、という疑問に思った部分を質問にしてまとめる。この頃は、お互い勉強熱心でしたね。
ガンダム指南で大逆転
渡辺:その後も、鵜之澤君とは、毎晩のように話す機会があったので、ガンプラのTVCFの製作の相談を受けたりしましたね。
『ガンダム』に関しては、バンダイグループ入社前からよく知っていました。自分の小学校以来の親友がはまっていて、彼に勧められてテレビを見たら、非常に斬新で面白かった。そういうわけで、『ガンダム』とは「こういうもの」というそれなりの知識も持っていました。
逆に鵜之澤君は『ガンダム』はもちろん特撮とかアニメとか無縁の男でした。それでも、東宝撮影所の川北(紘一)さんの現場でガンプラのコマーシャルとか作ったりしているわけですよ。夜遅くに撮影所から帰ってくると、自分の部屋に寄って、いろいろ相談してくるわけです。
自分は、『ガンダム』に関しては一家言持っていましたから、「ガンダムなら、こういう風にした方がいいんじゃないか」って、CFのコンセプトアイディアとかいろいろアドバイスをしてやったんです。鵜之澤君は、それをそのままちゃっかり採用して、「うまくいった」って、あとで礼をいってきました。
―――ガンプラCFは、実は渡辺さんプロデュースだったわけですね。
渡辺:うまいことパクられてしまったわけですね(笑)。でも、このことを鵜之澤君は、ホビー事業部の上司、北出(孝雄)さんにちゃんと報告していたらしいんですよ。北出さんは、ウチ(ポピー)の村上さんと同期なので、頻繁に連絡を取り合っていたようです。鵜之澤君の話を聞いた北出さんが村上さんに「お前のところの経理に渡辺ってヘンなのがいるらしいじゃないか。経理にいるのはもったいないぞ」みたいなことをささやいたらしい。村上さんは、それを聞いて「コイツは開発が出来るんじゃないか」って思ってくれたらしいんです。
―――いよいよ、最初の転機ですね。
渡辺:ある日、杉浦さんから自分のデスクに内線電話があって、「今、テレビシリーズの『コブラ』の件で東京ムービーのプロデューサーがいらっしゃっているから、同席してくれ」と突然言われたんですよ。自分は、経理ですから、ああ、また版権の話かな?とか思って黙ってついていったんです。
応接室に入って、プロデューサーの方に挨拶していたら、杉浦さんが「彼が、今度”開発”をやる渡辺です」って。驚きましたよ。
―――その場で聞かされたんですか!?
渡辺:その場で人事ですよ。前振りも何もありません。自分は、話のルート(鵜之沢君→北出さん→村上さん→杉浦さん)なんて知るわけもありませんから。
しかし、考えてみると、鵜之沢君が話をしていてくれなかったら、今の自分はなかったわけですね。と言いつつ、彼との付き合いは、まだ始まったばかりなんですがね……。
ついに念願の男子玩具開発に転属となった渡辺。水を得た魚のごとく活躍できると思ったが……現実は、なかなか彼を前に進めてはくれなかった。次回乞うご期待
【補足解説】
- 「杉浦 幸昌」
- 株式会社ポピーで、1970年代に「ポピニカ」「超合金」などキャラクター玩具の基礎を築き上げた人物。1983年バンダイ本社合併後は、ゲーム会社「バンプレスト」の社長として就任。その後『スーパーロボット大戦』シリーズや同社のアミューズメント向けプライズビジネスを確立させた。後にバンダイ会長となる。日本のキャラクタービジネスにおける功績は計り知れない。
- 「村上 克司」
- 1973年の『イナズマン』へのスタッフ参加以来、アニメ・特撮番組に数多くのデザイン企画を提供してきた人物。『勇者ライディーン』(1975年)、『超電磁ロボ コン・バトラーV』(1976年)に端を発する「変形合体ロボット」や、「スーパー戦隊シリーズ」のコスチュームや巨大ロボット、「宇宙刑事」に代表されるメタルヒーローシリーズなど、村上氏の存在無くしては実現は考えられなかったと言えよう。
- 「柴崎 誠」
- 1981年ポピー入社で渡辺氏と同期。バンダイ統合後は、低価格帯の自販機、いわゆるガシャポンなどの担当セクションであるベンダー事業部で活躍。特にカードダスで大成功を収める。現・代表取締役副社長。
- 「横井 昭裕」
- 日本国内で累計2000万台を売る大ヒットとなり、社会現象にまでなった「たまごっち」の企画・開発を手がけたブームの仕掛人。バンダイ企画部時代から、独立して企画会社ウィズを立ち上げた現在に至るまで、「プリモプエル」や「デジタルモンスター」など、生み出したヒット商品は数知れない。
- 「鵜之澤 伸」
- 現・株式会社バンダイナムコゲームス代表取締役副社長。1981年バンダイ入社で、渡辺氏とはグループ内同期。その後、エモーションを立ち上げる際に、渡辺氏が、その才能に惚れ込み、パートナーとしてホビーより引き抜く形で参加させることとなる。今後も、渡辺氏の談話の中には、鵜之澤氏の名がよく出てくるので、ご記憶願いたい。
- 「ガンプラブーム」
- 1980年に「ガンダム」のプラモデルがバンダイより発売される。番組放映終了後にも関わらず、売り切れ店が続出するほどの大ヒット商品となる。従来の電動やゼンマイによる歩行ギミックなどを廃し、プロポーション重視のディスプレイモデルとし、1/144という国際スケールで発売した点が、単なる玩具プラモとの一線を画した。1981年当時は、劇場版の『ガンダム』も好調で、それに呼応する形で「リアルタイプ」が発売された時期である。リアルタイプは、ミリタリーチックな成形色やデカール(マークシール)で、本格的なスケールモデルを目指し、その後の作品世界の方向性をも決定づけた。
- 「川北 紘一」
- 平成『ゴジラ』シリーズの特技監督であり、近年は『グランセイザー』などの「超星神」シリーズでも活躍。氏は、ガンプラブーム当時のコマーシャルの特撮も担当していたのだ。工場にズラリと並んだザクが次々とロールアウトしていく「ジオン脅威のメカニズム」も氏の手腕によるものである。
- 「コブラ」
- 寺沢武一氏原作のSFコミック。1982年に『スペースコブラ』のタイトルでテレビアニメ化されている。当時ポピーからもタートル号や変形ロボ・サイコロイドなどの玩具が数種発売されている。渡辺氏の談話の中にあるとおり、氏が開発一年目に担当したプロジェクトでもある。その後、エモーションでのアニメビデオリリース第一弾の中には、劇場版『コブラ』もラインナップされていた。だが、原作者の強い意向によりビデオ化は販売直前で中止という結果になった。渡辺氏にとって、『コブラ』は宿命的な作品と言ってもいいかもしれない。
(改稿20070217)
© SHIGERU WATANABE
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INTERVIEW インタビュー
語り:渡辺 繁
絵:大西 信之